ときの忘れもの 今月のお勧め
■2012年02月29日(水)  ヤン・ソーデック「Gabina shaving」
saudek_09_gabina.jpg 475×600 78Kヤン・ソーデック
Gabina shaving
1982年
ゼラチンシルバープリント・手彩色
イメージサイズ:17.7×17.0cm
シートサイズ :25.2×19.8cm
サインあり

今回はモノクロ写真に手彩色した独特の色彩作品で知られるヤン・ソーデックの作品をご紹介します。
古い地下室の朽ちかけた壁に投影したイメージをバックに少女や熟年のモデルを配して特異な世界を展開するソーデックの写真は、ときにはグロテスクにも見えますが、あるものをただ写すのではなく、自らの伝えたいメッセージを様々なテクニックを駆使して創りあげる姿勢には一貫したものがあります。6人の兄弟を強制収容所で亡くすという悲劇を経験したソーデックがプラハで初個展を開いたのが1963年、チェコ事件後の1971年には、彼の重要なモチーフとなる「壁」を発見します。
白黒やセピアの写真に着色した彼の作品は、一枚の作品の中に濃厚な物語性を持たせた古典絵画のような趣がありますが、「自分の表現したいのは魂のポートレートだ」と言っているように、彼の作品からは生への讃歌、それも強烈な匂いを放つ毒々しい花のような性的な生命力と暴力的な死のイメージが立ち上ってきます。

■ヤン・ソーデック
1935年プラハ生まれ。6人の兄弟を強制収容所で亡くす。15歳の時初めてカメラを手にし、写真家を志す。プラハのグラフィックアートの学校で学んだ後、1983年まで写真製版のカメラマンとして働きながら写真を撮り続ける。1963年プラハで初個展。1971年彼の重要なモチーフとなる「壁」を発見する。この頃から世界的に知られるようになり、海外で多くの展覧会が開催される。
1977年頃からモノクロ写真に手彩色を始める。1984年フリーランスとなる。1990年フランスのレジオン・ド=ヌール勲章のシュバリエ章を受章。
パブリック・コレクション:ポンピドゥーセンター、メトロポリタン美術館、ポール・ゲティ美術館など。

■2012年02月20日(月)  国吉康雄「バーレスクの女王」
kuniyoshi_01_burlesquequeen.JPG 511×600 76K国吉康雄
Burlesque queen バーレスクの女王(第2版)
1936年 リトグラフ
29.8x24.4cm  Ed.100 signed
※レゾネNo.D-L61、第1版は1933年 Ed.25

今週はアメリカを代表する画家・国吉康雄(1889〜1953)のリトグラフを紹介します。
えっ、クニヨシって日本人じゃないのとお思いになるでしょうが、その死去に際し、かの国の新聞は「アメリカ最高の芸術家ヤスオ・クニヨシ死す」と報じ、アメリカ画壇における不動の地位と人望を讃えました。
国吉はその生涯に81点の石版画(リトグラフ)と47点の銅版画を制作しました。版画を手がけた巨匠たちの中では決して多い点数ではありませんが、いずれもモノトーンの憂愁や倦怠、孤独感などを漂わせた女性像が中心的モチーフになっています。

2004年に東京国立近代美術館で大規模な回顧展が開催され、本年7月にも岡山県立美術館で「福武コレクションによる 国吉康雄コレクション」展が開かれましたが、特筆すべきはアメリカでの生前からの高い評価です。
国吉は1948年ホイットニー美術館で、現存作家としては初の回顧展を開催します。さらに1952年には第26回ヴェネツィア・ビエンナーレに、アメリカ代表として出品します。同年の移民帰化法の成立により、ようやくアメリカ市民権を保有する資格が生じたものの、その手続きが完了する前に、翌年胃癌のため死去したのでした。
現在では、ベン・シャーン、エドワード・ホッパーらとともに、20世紀前半のアメリカを代表する画家の一人として評価され、その名声は世界的なものとなっています。

国吉康雄
1889年岡山県に生まれる。1906年アメリカ・シアトル移住。1910年ニューヨークに渡り、美術を学び始める。1914年ホーマー・ボッスの指導するニューヨーク市の進歩的な美術学校、インディペンデント・スクールに入学。1916年にはアート・スチューデンツ・リーグに入学し、1920年4月までそこで学ぶ(終わりの3年間は特待生であった)。 ケネス・ヘイズ・ミラーに師事し、多大な影響を受ける。1922年ニューヨークのダニエル画廊で「国吉康雄油絵素描展」を開催。 1928年、1925年につづきヨーロッパに旅行し、ジュール・パスキンらパリの美術家たちと親交を深める。この頃石版画制作に没頭する。 1929年ニューヨーク近代美術館での「19人の現代アメリカ作家展」出品作家に選ばれる。

1931年父親を見舞うため日本に旅行。日本での初個展が東京三越百貨店と大阪三越百貨店で同時開催される。1932年アメリカに帰国。 翌年からアート・スチューデント・リーグで教鞭をとる(1953年まで)。 1937年アメリカ美術家会議の一員として1940年まで活発に活動する。 1942年の真珠湾攻撃により、日本に向けて停戦勧告のため短波ラジオ放送を行うなど日本の軍事侵略に抗議する活動を行う。 1948年ホイットニー美術館で回顧展が開催。これは同美術館がアメリカの現存作家に関して行なう個人展覧会の最初のものであった。 1952年ヴェネチアビエンナーレのアメリカ代表に選ばれる。 1953年アメリカ市民権の獲得を目前にニューヨークで亡くなる。享年63歳。

■2012年02月10日(金)  植田正治「砂丘ヌード」
砂丘ヌード植田正治
「砂丘ヌード」
1950年(Printed later)
ゼラチン・シルバー・プリント
24.2×21.7cm
サインあり

植田正治の「砂丘ヌード」。この作品を見て直ぐに作者を言える方は相当の植田ファン。
いわゆる「植田調」ではありません。
菊池武夫のために撮った「砂丘モード」や、愛妻とのコラボレーション「妻のいる砂丘風景」とは異なる作風です。

植田正治は、1950年ごろ集中して「砂丘ヌード」を撮影しています。
1951年秋には、植田のほか杵島隆、田賀久治らが参加して、鳥取砂丘ヌード撮影会が催されました。またこの年、日本カメラの「ヌード新作集」に作品が掲載され、「砂丘ヌード」が第2回富士フォトコンテストのプロの部で3等に入選するなどしています。
この作品は、「砂丘ヌード」シリーズのなかでも、ソフトフォーカスで撮影されていて、少し趣を異にしています。通常のレンズで撮った作品は、体のラインがシャープに出ていて、トルソとしての美しさや量感を強調していますが、この作品は、温かなぬくもりを感じさせてくれます。

植田正治
1913年、鳥取県生まれ。15歳頃から写真に夢中になる。1932年上京、オリエンタル写真学校に学ぶ。第8期生として卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選、特に群像演出写真が注目される。1937年石津良介の呼びかけで「中国写真家集団」の創立に参加。1949年山陰の空・地平線・砂浜などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は、植田調(Ueda-cho)と呼ばれ世界中で高い評価を得る。1950年写真家集団エタン派を結成。1954年第2回二科賞受賞。1958年ニューヨーク近代美術館出展。1975年第25回日本写真協会賞年度賞受賞。1978年文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける。1989年第39回日本写真協会功労賞受賞。1996年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館。1996年フランス共和国の芸術文化勲章を授与される。2000年歿(享年88)。2005〜2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回、近年さらに評価が高まっている。

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