ときの忘れもの 今月のお勧め
■2013年07月30日(火)  瀧口修造の詩による版画集 『スフィンクス』
takiguchi01_01.jpg 493×600 103K瀧口修造
瀧口修造の詩による版画集 『スフィンクス』
限定50部
1954年
アイデア:久保貞次郎
編集:福島辰夫
表紙デザイン・レイアウト:山城隆一
挿絵:北川民次、瑛九、泉茂、加藤正、利根山光人、青原俊子(内間)
瀧口修造、北川民次、久保貞次郎、福島辰夫のサインあり

今回ご紹介するのは、瀧口修造の詩による版画集『スフィンクス』です。
ときの忘れものでは、1997年10月に開催した久保貞次郎追悼集刊行記念展で一度ご紹介しています。

『スフィンクス』は1954年に限定50部刊行されました。
瀧口修造の1930年代の詩に、北川民次瑛九泉茂、加藤正、利根山光人、青原俊子(内間)の6名の版画を組み合わせたもので、奥付に<アイデア久保貞次郎・編集福島辰夫>とありますが、久保先生が実質的な版元で、制作の実務を福島さんが担当されたようです。
1番本から6番本までには、通常の6枚の版画に加え、各作家のオリジナル・デッサンがそれぞれ1枚ずつ入っており、1番本は瑛九です。

ときの忘れものは、2冊を所蔵しています。
先ず、限定1/50、文字通り一番。岡鹿之助の旧蔵本で、瑛九のオリジナル・デッサンが挿入され、奥付には瀧口修造、北川民次、福島辰夫、久保貞次郎の4人の自筆ペン・サインが記入されています。
なぜ1番本が岡鹿之助の旧蔵本かというと、これは亭主の推測ですが、久保先生は(意外に思われるかも知れませんが)岡鹿之助を非常に尊敬しており、おそらく刊行後、真っ先に献呈されたのではないかと思います。

もう一冊は、限定48/50。こちらの奥付には瀧口修造、北川民次、久保貞次郎の3人の自筆ペン・サインが記入されています。

福島辰夫のサインが片方にあり、片方にないのはどうもたいした理由ではないようです。
なぜなら、この詩画集の2冊を詳細にチェックすると、6人の作家のサインもあったり、なかったりするからです。おそらくサイン漏れと思われます。

■2013年07月20日(土)  E.J.ベロック「Untitled」
bellocq_02_untitled.jpg 461×600 46KE.J.ベロック
Untitled
ゼラチンシルバープリント
25.2×20.2cm
裏面にサインあり

その生涯が謎に包まれ、生前はまったく知られること無く、遺された娼婦の写真が没後にフリードランダーによって再発見されたE.J.ベロックの作品をご紹介します。
この写真を撮影したのはベロックですが、モデルである笑みを浮かべた女性の視線の先には別のカメラマンが居たのではないか、と想像してしまいます。
画面の右下に写り込んでいるのはおそらく人の肩でしょう。
この肩と左上にある何かの影は同じような形で画面を切り取っていて、この写真がどのような状況で撮影されたのか判然としないまま、ミステリアスな印象を残しています。

ベロックについては、小林美香さんのエッセイ「写真のバックストーリー」第33回でも取りあげていただきました。


E.J.ベロック Ernest James BELLOCQ(1873-1949)
1873年生まれ。1949年、歿。写真家。ベロックの手によるものとして知られる現存の写真は、すべてニューオリンズの紅燈街「ストーリーヴィル」の娼館で撮られており、そこで働く女性たちが被写体として登場している。おおむねの女性たちは、やわらかな太陽光の差しこむ場所にいて、着衣でもヌードでも、こわばりを解いたゆったりとした時間のなかにあるように見える。こうした、男性が撮したように思えない極めてニュートラルなエロスが現在でも人々を魅了している。
ベロックの存在が写真史に登録されることになったのは、1958年ニューヨークからやってきた写真家リー・フリードランダーがあるギャラリーを訪れ、ベロック撮影の乾板を見出し関心を抱いたことをきっかけとする。1966年フリードランダーは、ベロックの乾板89点を買い取り、焼付け作業を行う。こうして1970年にニューヨーク近代美術館で公開されるなど、ベロックの女性たちは再出現した。

■2013年07月10日(水)  国吉康雄「綱渡りの女」
kuniyoshi_06.jpg 409×550 32K国吉康雄
綱渡りの女
1938年
リトグラフ
39.5x30.0cm
サインあり

1906年、国吉康雄は弱冠17歳の時に渡米し、以後4年間をロサンゼルス周辺で過ごします。労働に明け暮れる毎日を送りながら、次第に画家になりたいと考えるようになり、1910年にニューヨークを目指して東海岸へと移りました。
1916年にアート・スチューデンツ・リーグに入学。そこで出会った師や友人たちとの交遊と勉学が、国吉を芸術家に育て上げます。1922年、ニューヨークのダニエル画廊で個展を開き、以後同所での作品発表により、アメリカ美術界での地歩を着実に築いていきました。

1930年代に入り評価が高まる一方で、悪化する国際情勢のもと、アメリカで暮らす国吉にとって、日本人であることが大きな障害となり始めました。この時期の作品には、国吉の代表的なモチーフであるサーカスや酒場で働く女性たちが多く登場します。この作品もまた、その頃制作されたものです。
下からライトが照らされているのか、傘を持ってポーズをとる女の表情は陰影が濃くなり際立っています。国吉が描く女たちの身体はいずれも肉付きを誇張するようにデフォルメされ、女の美しさ、逞しさを感じさせます。
サーカスの女の哀愁と美をモノクロ一色のリトグラフで表現したこの作品は、日本版画史のみならず、20世紀を代表する名作版画と言えるでしょう。

日本では、2004年に東京国立近代美術館で大規模な回顧展が開催されましたが、特筆すべきはアメリカでの生前からの高い評価です。

1929年、ニューヨーク近代美術館での「19人の現代アメリカ作家展」の出品作家に選ばれたことで、その評価を決定的なものとします。
1948年にはホイットニー美術館で、現存作家としては初の回顧展を開催し、さらに1952年には第26回ヴェネツィア・ビエンナーレに、アメリカ代表として出品します。
同年の移民帰化法の成立により、ようやくアメリカ市民権を保有する資格が生じたものの、その手続きが完了するのを前に、翌年胃癌のため亡くなりました。
国吉の死去に際し、アメリカの新聞は「アメリカ最高の芸術家ヤスオ・クニヨシ死す」と報じ、アメリカ画壇における不動の地位と人望を讃えました。

困難な時代をアメリカ人画家になる事を夢見て懸命に生き抜き、見事にその夢を実現した国吉。彼は母校のリーグを中心に後進の指導にあたるかたわら、美術家組合の初代会長としてアーティストの地位向上のためにも尽力しました。
現在では、ベン・シャーン、エドワード・ホッパーらとともに、20世紀前半のアメリカを代表する画家の一人として評価され、その名声は世界的なものとなっています。

国吉康雄 Yasuo KUNIYOSHI(1889-1953)
1889年岡山県に生まれる。1906年アメリカ・シアトル移住。1910年ニューヨークに渡り、美術を学び始める。 1914年ホーマー・ボッスの指導するニューヨーク市の進歩的な美術学校、インディペンデント・スクールに入学。1916年にはアート・スチューデンツ・リーグに入学し、1920年4月までそこで学ぶ(終わりの3年間は特待生であった)。 ケネス・ヘイズ・ミラーに師事し、多大な影響を受ける。1922年ニューヨークのダニエル画廊で《国吉康雄油絵素描展》を開催。 1928年、1925年につづきヨーロッパに旅行し、ジュール・パスキンらパリの美術家たちと親交を深める。この頃石版画制作に没頭する。 1929年ニューヨーク近代美術館での《19人の現代アメリカ作家展》出品作家に選ばれる。
1931年父親を見舞うため日本に旅行。日本での初個展が東京三越百貨店と大阪三越百貨店で同時開催される。1932年アメリカに帰国。 翌年からアート・スチューデント・リーグで教鞭をとる(1953年まで)。 1937年アメリカ美術家会議の一員として1940年まで活発に活動する。 1942年の真珠湾攻撃により、日本に向けて停戦勧告のため短波ラジオ放送を行うなど日本の軍事侵略に抗議する活動を行う。 1948年ホイットニー美術館で回顧展が開催。これは同美術館がアメリカの現存作家に関して行なう個人展覧会の最初のものであった。 1952年ヴェネチアビエンナーレのアメリカ代表に選ばれる。 1953年アメリカ市民権の獲得を目前にニューヨークで亡くなる。享年63。

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