ときの忘れもの 今月のお勧め
■2010年07月30日(金)  カリン・シェケシー「mit Katarina」
nicky_20100730.jpg 587×600 79Kカリン・シェケシー
「mit Katarina」
1977年
ゼラチンシルバープリント
52.0×51.3cm
Ed.20
サインあり

今週のお勧めはカリン・シェケシーの「mit Katarina」です。
カリン・シェケシーは、1939年ドイツ生まれの女性写真家です。
彼女の作品は、詩人・白石かずこの言葉を借りれば「ここには嫉妬も情欲も、同性愛も異性愛もない。あるのは生命としての肉体、オブジェとしての肉体である。」(「妖のエロス」芳賀書店刊)ということになります。カリンの作品では、肉体は、綿密に練られた構図を実現するためのオブジェであり、感情は必要ありません。それはある一瞬のようでもあり、永遠に続く時間のようでもある不思議な感覚を覚えます。そして、そこからは実に美的なハーモニーが聞こえてくるのがお分かりだと思います。
カリンの撮影した写真をもとに夫であり画家であるポール・ヴンダーリッヒが絵画・版画作品を制作したということはよく知られています。カリンの写真とポールの作品とでは一見したところ受ける印象がずいぶん違いますが、よく見ると、なぜか両方ともこの世のものではないようにも思えます。

カリン・シェケシー Karin SZEKESSY(1939-)
1939年ドイツ生まれ。1957年〜1959年ミュンヘンで写真を学ぶ。1959年以降、人形収集と人形撮影をする。1963年画家のポール・ヴンダーリッヒと共同で初めてヌード写真を撮影。1960年から1966年まで、雑誌"Kristall(水晶)"のルポルタージュ・カメラマンとして働き、1962年から1967年には、グループ"Zeitgenossen(同時代人)"のメンバーとして活動。
1967年から1969年にかけて、ハンブルクの美術学校でファッション写真についての講義をする。1971年ポール・ヴンダーリヒと結婚、カリンの撮影した写真をもとにポールが絵画・版画作品を制作するなど、コラボレーション作品を発表。1984〜1987年"Ullstein-Krimis"のために約300枚のカバー写真を制作。ハンブルクおよびフランス南部に住んで制作を続けている。

■2010年07月20日(火)  マックス・クリンガー《間奏曲》より「海辺」
nicky_20100720.jpg 600×304 139Kマックス・クリンガー
《間奏曲》より「海辺」
1881年
エッチング
23.0×40.0cm
版上サインあり
※台紙に貼り付けられています

今週のお勧めは、世紀末ドイツを代表するマックス・クリンガーの銅版画をご紹介します。
音楽ファンなら、ライプツィヒのコンサートホール、ゲヴァントハウスのクリンガーの間に飾られていたベートーヴェン像を思い起こすでしょう(現在はライプツィヒ美術館Museum der bildenden Kuenste Leipzigで展示されています)。
クリンガーはこのベートーヴェン像のために多額の資金を投入し、実に16年もの歳月(1885-1902)をかけて制作しました。1902年ウィーン分離派会館で行われた完成式典では、クリムトをはじめ分離派の画家達がベートーヴェンをモチーフに壁画を制作し、グスタフ・マーラーは義父カール・モルの依頼により、第九の合唱部分を管楽器用に編曲して分離派会館で演奏したといいます。マックス・クリンガーが同時代の世紀末芸術家達からいかに深い敬意を抱かれていたかがわかります。
版画集《間奏曲》全12点は、1911(明治44)年の「白樺主催泰西版画展覧会」(白樺主催第2回展覧会)、翌年の「白樺主催第五回美術展覧会」に出品されている。
この作品は、2009年の神奈川県立近代美術館他を巡回した「白樺100年」展にも出品され、西洋美術館にも収蔵されています。

マックス・クリンガー Max KLINGER(1857-1920)
19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したドイツの芸術家。
1857年ライプツィヒに生まれる。カールスルーエの美術学校で学び、17歳で画家カール・グッソーに師事し、翌年ベルリン・アカデミーに入学。1983年から3年間パリで修業、ギュスターブ・ドレやゴヤの銅版画を研究する。1892年ミュンヘンでシュトゥックらが「分離派」が旗揚げするとそれに呼応して「ベルリン分離派」を結成した。
油彩・素描・彫刻・壁画装飾・版画など多彩なジャンルの創作活動に精力的に取り組む。中でも生涯に14作の版画連作など約450点の版画作品を制作している。
物語性の強い連作版画や、古今東西の音楽や思想、文学などが反映されたクリンガーの版画には、彼が執着していたテーマやモティーフが繰り返し描かれており(「生」「死」「愛」「幻想」など)、その独創的で幻想的なスタイルは、近代版画の新たな時代を築くとともに、同時代の音楽家、文学者、特にマックス・エルンストなどシュルレアリスム画家に大きな影響を与えた。
作曲家ヨハネス・ブラームスとも親しく、クリンガーの父が死去した際にはブラームスによって曲が捧げられている。
またクリンガーはドイツの画家としては珍しく、近代日本において早い時期に評価を受けた画家であり、特に『白樺』において、熱狂的な支持を得た。1920年、歿。
国立西洋美術館や高知県立美術館にコレクションされている。
故郷ドイツでは、2004年秋に開館したライプツィヒ美術館(Museum der bildenden Kuenste Leipzig)に、約100作に及ぶ絵画と彫刻、35の石膏像、300点のスケッチ・版画という世界最大のコレクションが収められている。

■2010年07月10日(土)  植田正治「妻のいる砂丘風景(III)」
nicky_20100710.jpg 597×600 76K植田正治
「妻のいる砂丘風景(III)」
1950年頃(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
16.0×16.0cm
サインあり

2005年から2008年にかけて開催されたヨーロッパでの巡回展で、植田正治の作品の持つシンプルでありながら強い印象を残す表現力があらためて評価され、世界的にきわめて高いものになりました。今年の日本での植田正治への関心の高まりは、ようやくヨーロッパから日本にその波が届いたことを示すのかもしれません。
ときの忘れものでは、植田正治作品をいつでもご覧いただけます。どうぞお気軽にお問い合わせください。

植田正治 Shoji UEDA(1913-2000)
1913年、鳥取県生まれ。15歳頃から写真に夢中になる。1932年上京、オリエンタル写真学校に学ぶ。第8期生として卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選、特に群像演出写真が注目される。1937年石津良介の呼びかけで「中国写真家集団」の創立に参加。1949年山陰の空・地平線・砂浜などを背景に、被写体をオブジェのように配置した演出写真は、植田調(Ueda-cho)と呼ばれ世界中で高い評価を得る。1950年写真家集団エタン派を結成。
1954年第2回二科賞受賞。1958年ニューヨーク近代美術館出展。1975年第25回日本写真協会賞年度賞受賞。1978年文化庁創設10周年記念功労者表彰を受ける。1989年第39回日本写真協会功労賞受賞。1996年鳥取県岸本町に植田正治写真美術館開館。1996年フランス共和国の芸術文化勲章を授与される。2000年歿(享年88)。2005〜2008年ヨーロッパで大規模な回顧展が巡回、近年さらに評価が高まっている。

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