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ハインリッヒ・フォーゲラー

Heinrich Vogeler

1872年にブレーメンに生まれたフォーゲラーは、1894年にヴォルプスヴェーデに定住し、自然を舞台とした童話のような世界を装飾的に創造し、その銅版画は1910(明治43)年に日本いち早く紹介され、文芸雑誌『白樺』に特集が組まれ、表紙や裏表紙、扉を飾りました。

第一次世界大戦には志願兵としてドイツ軍に参加、やがて社会主義理論に同調し、以降、戦争や社会情勢の悲惨さを象った表現主義的手法を取り入れた作風へと変化します。のちソ連にわたり、1942年プロレタリアートの画家・運動家としてソ連カザフスタンで生涯を閉じました。

 

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ハインリッヒ・フォーゲラー 年譜

1872年(明治5年) 12月12日、ブレーメンで鉄をあつかう富裕な商人カール・エドアルト・フォーゲラーの息子として生まれた。
1890年(明治23年) デュッセルドルフ美術アカデミーに入学、ペーター・ヤンセン、エドアール・フォン・ゲプハルト、アルトウール・カンプフ等に人物画、装飾を学ぶ。
1892年(明治25年) オランダ、ベルギー、イタリアに研修旅行。
1893年(明治26年) アカデミーを卒業し、パリに行き、ルーヴル美術館やビブリオテーク・ナショナルを見る。
1894年(明治27年) ブレーメンの近くの村ヴォルプスヴェーデに滞在し、同地の芸術家グループと接触する。フリッツ・マッケンゼン、オットー・モーダーゾーン、ハンス・アム・エンデ、フリッツ・オーヴァーベックと共に〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉を設立する。
ハンス・アム・エンデに銅版画と木版画の技術を学び、エッチング第一作目を制作。
後に妻となる、教師の娘マルタ・シュレーダーと出会う。父カール死亡。
1895年(明治28年) ブレーメン美術館とミュンヘンのガラス宮殿での「国際美術展覧会」において〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉による最初のグループ展。そこでセンセーショナルな成功を収める。
ハンス・アム・エンデの指導のもと、マッケンゼン、オーヴァーベック、フォーゲラーは〈ヴァイヤーベルク・オリジナル銅版画協会〉を設立し、共同で版画の作品集を出版、販売する。4人の最初の版画集『ヴァイヤーベルクから』を発刊する。
ベルリンのO・フェルジングから銅版画のプレス機を手に入れる。
ヴォルプスヴェーデの町外れにある藁葺の農家を買って自分の家として改造する。
ハウプトマンの『沈鐘』の挿絵。
1896年(明治29年) 街道に沿って白樺を植え、自邸にバルケンホフの名を冠する。
1897年(明治30年) ドレスデンにしばらく滞在する。ここで開かれた展覧会でムンクの「病める娘」を見て衝撃を受けたという。
版画集『ヴォルプスヴェーデより』が、マッケンゼン、オーヴァーベック、アム・エンデ、及びフォーゲラーの12葉の銅版画で発刊される。
1898年(明治31年) フィレンツェヘの旅。ポッティチェリを見る。ここでライナー・マリア・リルケと知り合う。書物の装幀の最初の重要な依頼を受ける。
バルケンホフの大改装。
クリスマスにリルケがフォーゲラー宅を訪問する。リルケはフォーゲラー宅を去った後、バルケンホフに捧げた銘文をフォーゲラーに送っている。
ドレスデンにおける最初の大規模な個展の開催。
1899年(明治32年) フォーゲラーの詩集『おまえに』およびエッチング集『春に寄せて』が刊行される。
モーダーゾーン及びオーヴァーベックとともに〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉から脱退、その後協会は解散する。
R・A・シュレーダーのすすめで、ミュンヘンで出版社インゼルの仕事をするようになる。雑誌『インゼル』に協力する。ミュンヘンにしばしば滞在する。
リルケの第二詩集『わが祝いに』(G・H・マイヤー刊)の挿絵を描く。
1900年(明治33年) リルケがバルケンホフに長期滞在する(8月末から10月初めまで)。
A・W・ハイメルのために工芸デザイン、ハイメルのシュワービング(ミュンへン)の家の設計。
この頃頻繁にバルケンホフで芸術の夕べを開く(客人としてハウプトマン兄弟、デーメル、ビーアバウム、ベートゲら)。
1901年(明治34年) ヴォルプスヴェーデ出身のマルタ・シュレーダーと結婚(娘マリー=ルイーゼ、ベッティーナ、マルタ)。
アムステルダム、プリユージュ、パリへ旅。
リルケはクララ・ヴェストホフと、モーダーゾーンはパウラ・ベッカーと結婚。
1902年(明治35年) ブレーメン美術館(クンストハレ)で上演されたライナー・マリア・リルケ監督の演劇「ベアトリックス姉妹」の舞台美術を手がける。
1903年(明治36年) マルタとイタリアへ旅。オットー・ゾーンとナポリ、ポンペイをまわる。
リルケの『ヴォルプスヴェーデ』が出版される。
リルケが妻クララと共にあらためてバルケンホフの客人となる。
1905年(明治38年) 室内設計、装飾を担当したブレーメン市庁舎「黄金の間(ギュルテンカンマー)」が完成。ユーゲントシュティールの最も重要な室内工芸のひとつとなる。
オルデンブルクで開催された北西ドイツ美術展の特別室に大作《夏の夕べ》を出品し、金賞を獲得する。
1906年(明治39年) セイロン島へ旅行。
弟フランツ・フォーゲラーがヴォルプスヴェーデに「美術と工芸の家」を創設する。
ドレスデンにおける第3回ドイツ工芸美術展に《若い女性のための部屋》を出品する。
1907年(明治40年) パウラ・モーダーゾーン=ベッカーの死。ゴーリキイを読む。
マルタとの仲が悪くなりはじめる。
1908年(明治41年) バルケンホフの最後の大改装。
弟フランツと共に家具、インテリア・デザインのための「ヴォルプスヴェーデ工房」を設立する。
ドクター・レーンベルグの家の設計。
鉄道の客車の設計。
1909年(明治42年) イギリスの研修旅行に参加し、「ヴォルプスヴェーデ工房」のために労働者集合住宅の設計案をつくる(実行されず)。
結婚生活の危機、フォーゲラーの作品に対する一般の関心も薄れる。
1910年(明治43年) ブリュッセル国際展への参加。「ヴォルプスヴェーデ工房」が表彰される。
ヴォルプスヴェーデ駅竣工。
ブレーメン美術館で展覧会。
東京・上野公園竹ノ台陳列館で開催された白樺社主催「南薫造・有島壬生馬渡欧記念絵画展覧会」に参考品として銅版画3点が展示される。日本初のフォーゲラー作品の展示となる。
1911年(明治44年) パリとスイスに旅。パリでリルケと再会。
前年に創設された日本の文芸誌『白樺』と接触する。
雑誌『白樺』第2巻第9号(9月1日付)でフォーゲラーが紹介される。
白樺社主催「泰西版画展覧会」(東京霊南坂下 三會堂)にフォーゲラーのエッチング14点およびヴォルプスヴェーデの他の画家たちの作品が展示される。
雑誌『白樺』第2巻第12号(12月1日付)でフォーゲラーを特集する。
1912年(明治45年) ザルツブルグ、ウィーン、ミュンヘン、ヴュルツブルグ、ベルリンへ旅。
白樺主催「第4回美術展覧会」(霊南坂下 三會堂)に一室が与えられ、銅版画38点が出品される。また京都での「第5回美術展覧会」(岡崎公園 府立図書館)にエッチング30数点が展示される。
『白樺』10月号のために表紙を描く。
リルケの著した『マリアの生涯』にフォーゲラーが挿絵を入れるという協同計画が、フォーゲラーの素描を不服としたリルケにより頓挫する。
1913年(大正2年) ベルリン滞在。
白樺主催「第6回美術展覧会」(虎の門議員倶楽部)にフォーゲラーの描いた「白樺」図案が展示される。
1914年(大正3年)
第一次世界大戦はじまる。公私共に展望を失い、志願兵として出征する。
ハイメルの死(ルドルフ・アレクサンダー・シュレーダーと共にインゼルをやっていた)。
この年の終りにリルケと最後に会ったといわれる。
1915年(大正4年) 軍務の訓練。カルパチア山脈に出征し、後にルーマニアに移動。
1916―17年(大正5−6年)
ポーランド、ルーマニア、ロシアに転戦。
ロシア革命おこる。
ボリシェヴィキのビラを読んで共鳴、反戦思想が芽生える。
1918年(大正7年) 「皇帝への手紙」で戦争継続に抗議し、一時ブレーメンの精神病院に収容される。非法定神経障害と診断され、除隊。
政治的世界観が変貌し、ブレーメンの社会主義着たちと接触する。
ブレーメン労働者及び兵士評議会ができ、その委員となる。
バルケンホフで政治集会。
1919年−1924年
(大正8年−13年)
バルケンホフが警察と治安当局から組織的に監視される。逃走中の革命家を匿った疑いで警察に捜索され、フォーゲラーは逮捕される。
「バルケンホフ労働者共同体」設立(1923年まで存続)。これは1921年以降「バルケンホフ労働者学校」として、農業および手工芸のコミューンを形成する。
コミュニストのマリー・グリースバッハとの交流。
1920年(大正9年) マルタと娘たちとの離別。マルタらは新築のハウス・イム・シュルーに転居する。
バルケンホフの壁画制作(−1926)
1922−23年(大正11−12年)
最後の銅版画制作。
1923年(大正12年) 後に二人目の妻となるソニア・マルフレフスカと初めてソビエト連邦(以下ソ連)を旅行。モスクワで二人の息子ヤン・ユルゲンが誕生。
「モスクワ西方国家的少数派共産主義大学」の芸術学部長となる。帰国後、共産党に入党。
バルケンホフ「子供の家」、「赤色救援会」と共同利用。
1924年(大正13年) 母マリー死亡。
バルケンホフが「ドイツ赤色救援会」の所有となる。
複合絵画技法の形成。
1925年(大正14年) ロシア革命の宣伝の書『ロシアの旅』を出す。
ベルリンに移住。合間にバルケンホフ・ディーレにフレスコ画を制作(1939年、改築により破壊される)。ベルリンで複合絵画展覧会、国際赤色救援会の任務によりソ連旅行。
1926−1927年
(大正15−昭和2年)
マルタと正式に離婚。あらためてソ連に旅行し、クレムリンに居を構える。ソニア・マルフレフスカと結婚。
中央アジアへ旅(サマルカンド、アシュハバード、クラスノヴォトスク、バクー)ドイツに帰国、ベルリンに移住。
バルケンホフの壁画が完成するが、当局より撤去を求められる。それに対してトーマス・マンら芸術家・文化人の広範なプロテストの運動広がる。
リヴェラに会う。
1928年(昭和3年) 革命的ドイツ造形芸術家同盟設立。
次第にソニアと疎遠になる(後にロシアで結婚解消)。
1929年(昭和4年) 注文画家として窮乏生活。共産党から追放される。
ベルリンのアーキテクトウールビュローのデザイナーとして働く(−1931)。
1930年(昭和5年) バルケンホフで赤色救援会が複合絵画展を開催、フォーゲラーの最後のヴォルプスヴェーデ滞在となる。
1931年(昭和6年) 再びソ連に渡る。〈建築標準化委員会〉に協力。ソビエト・ロシアで宣伝画家として働く。
1932年(昭和7年) モスクワ新西洋美術館におけるフォーゲラー展。
ヴォルプスヴェーデの子供の家<バルケンホフ>は閉鎖、所有権が個人の手に渡る。
1934年から
(昭和9年から)
モスクワ西洋美術館が複合絵画《ハンブルクの整備工》を購入。
カレリアのペトロサヴォスク郷土博物館のために作品を制作する。
カレリア・タシケント、アゼルバイジャン、クルディスタンの旅。
1935年(昭和10年) モスクワで複合絵画の個展。雑誌『国際文芸』への協力。
1936年(昭和11年) カレリアのペトロサヴォスクで「社会主義の産業」展のために素描90点余りの注文制作を受ける。複合技法の放棄。その後ソビエト連邦人民博物館の依頼で、連邦内の遠隔地へ制作旅行。
1941年(昭和16年) ソニアと離別。ソビエト芸術家モスクワ協会の展示室で絵画80点による展覧会。
ドイツ軍のソ連侵攻後、フォーゲラーは赤軍の宣伝部門に加わり、前線に送るパンフレットをデザインする。またモスクワ・ラジオ局のドイツ語放送で声明文の執筆と朗読。
彼の名はドイツ治安当局の特別手配者リストに掲載される。ドイツ軍がモスクワの手前まで侵攻してきたとき、中央アジアのカザフスタンに疎開。ダムで土木工事作業につく。
1942年(昭和17年) 物質的に窮乏し、健康状態も悪化する。入院するが、7月14日にカザフスタンにて死す。


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フォーゲラーを巡って 木村理恵子



展覧会
2011年
新春を寿ぐコレクション展 2011年1月5日〜1月8日

2010年
第184回) ハインリッヒ・フォーゲラー展 2010年2月23日〜3月6日


2008年
第156回) フォーゲラーとその時代(ユーゲント・シュティール)展 2008年4月4日〜4月19日

2006年
第131回) フォーゲラーとヴォルプスヴェーデ展 6月9日〜17日


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