1872年(明治5年) |
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12月12日、ブレーメンで鉄をあつかう富裕な商人カール・エドアルト・フォーゲラーの息子として生まれた。 |
1890年(明治23年) |
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デュッセルドルフ美術アカデミーに入学、ペーター・ヤンセン、エドアール・フォン・ゲプハルト、アルトウール・カンプフ等に人物画、装飾を学ぶ。 |
1892年(明治25年) |
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オランダ、ベルギー、イタリアに研修旅行。 |
1893年(明治26年) |
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アカデミーを卒業し、パリに行き、ルーヴル美術館やビブリオテーク・ナショナルを見る。 |
1894年(明治27年) |
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ブレーメンの近くの村ヴォルプスヴェーデに滞在し、同地の芸術家グループと接触する。フリッツ・マッケンゼン、オットー・モーダーゾーン、ハンス・アム・エンデ、フリッツ・オーヴァーベックと共に〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉を設立する。
ハンス・アム・エンデに銅版画と木版画の技術を学び、エッチング第一作目を制作。
後に妻となる、教師の娘マルタ・シュレーダーと出会う。父カール死亡。 |
1895年(明治28年) |
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ブレーメン美術館とミュンヘンのガラス宮殿での「国際美術展覧会」において〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉による最初のグループ展。そこでセンセーショナルな成功を収める。
ハンス・アム・エンデの指導のもと、マッケンゼン、オーヴァーベック、フォーゲラーは〈ヴァイヤーベルク・オリジナル銅版画協会〉を設立し、共同で版画の作品集を出版、販売する。4人の最初の版画集『ヴァイヤーベルクから』を発刊する。
ベルリンのO・フェルジングから銅版画のプレス機を手に入れる。
ヴォルプスヴェーデの町外れにある藁葺の農家を買って自分の家として改造する。
ハウプトマンの『沈鐘』の挿絵。 |
1896年(明治29年) |
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街道に沿って白樺を植え、自邸にバルケンホフの名を冠する。 |
1897年(明治30年) |
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ドレスデンにしばらく滞在する。ここで開かれた展覧会でムンクの「病める娘」を見て衝撃を受けたという。
版画集『ヴォルプスヴェーデより』が、マッケンゼン、オーヴァーベック、アム・エンデ、及びフォーゲラーの12葉の銅版画で発刊される。 |
1898年(明治31年) |
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フィレンツェヘの旅。ポッティチェリを見る。ここでライナー・マリア・リルケと知り合う。書物の装幀の最初の重要な依頼を受ける。
バルケンホフの大改装。
クリスマスにリルケがフォーゲラー宅を訪問する。リルケはフォーゲラー宅を去った後、バルケンホフに捧げた銘文をフォーゲラーに送っている。
ドレスデンにおける最初の大規模な個展の開催。 |
1899年(明治32年) |
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フォーゲラーの詩集『おまえに』およびエッチング集『春に寄せて』が刊行される。
モーダーゾーン及びオーヴァーベックとともに〈ヴォルプスヴェーデ芸術家協会〉から脱退、その後協会は解散する。
R・A・シュレーダーのすすめで、ミュンヘンで出版社インゼルの仕事をするようになる。雑誌『インゼル』に協力する。ミュンヘンにしばしば滞在する。
リルケの第二詩集『わが祝いに』(G・H・マイヤー刊)の挿絵を描く。 |
1900年(明治33年) |
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リルケがバルケンホフに長期滞在する(8月末から10月初めまで)。
A・W・ハイメルのために工芸デザイン、ハイメルのシュワービング(ミュンへン)の家の設計。
この頃頻繁にバルケンホフで芸術の夕べを開く(客人としてハウプトマン兄弟、デーメル、ビーアバウム、ベートゲら)。 |
1901年(明治34年) |
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ヴォルプスヴェーデ出身のマルタ・シュレーダーと結婚(娘マリー=ルイーゼ、ベッティーナ、マルタ)。
アムステルダム、プリユージュ、パリへ旅。
リルケはクララ・ヴェストホフと、モーダーゾーンはパウラ・ベッカーと結婚。 |
1902年(明治35年) |
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ブレーメン美術館(クンストハレ)で上演されたライナー・マリア・リルケ監督の演劇「ベアトリックス姉妹」の舞台美術を手がける。 |
1903年(明治36年) |
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マルタとイタリアへ旅。オットー・ゾーンとナポリ、ポンペイをまわる。
リルケの『ヴォルプスヴェーデ』が出版される。
リルケが妻クララと共にあらためてバルケンホフの客人となる。 |
1905年(明治38年) |
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室内設計、装飾を担当したブレーメン市庁舎「黄金の間(ギュルテンカンマー)」が完成。ユーゲントシュティールの最も重要な室内工芸のひとつとなる。
オルデンブルクで開催された北西ドイツ美術展の特別室に大作《夏の夕べ》を出品し、金賞を獲得する。 |
1906年(明治39年) |
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セイロン島へ旅行。
弟フランツ・フォーゲラーがヴォルプスヴェーデに「美術と工芸の家」を創設する。
ドレスデンにおける第3回ドイツ工芸美術展に《若い女性のための部屋》を出品する。 |
1907年(明治40年) |
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パウラ・モーダーゾーン=ベッカーの死。ゴーリキイを読む。
マルタとの仲が悪くなりはじめる。 |
1908年(明治41年) |
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バルケンホフの最後の大改装。
弟フランツと共に家具、インテリア・デザインのための「ヴォルプスヴェーデ工房」を設立する。
ドクター・レーンベルグの家の設計。
鉄道の客車の設計。 |
1909年(明治42年) |
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イギリスの研修旅行に参加し、「ヴォルプスヴェーデ工房」のために労働者集合住宅の設計案をつくる(実行されず)。
結婚生活の危機、フォーゲラーの作品に対する一般の関心も薄れる。 |
1910年(明治43年) |
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ブリュッセル国際展への参加。「ヴォルプスヴェーデ工房」が表彰される。
ヴォルプスヴェーデ駅竣工。
ブレーメン美術館で展覧会。
東京・上野公園竹ノ台陳列館で開催された白樺社主催「南薫造・有島壬生馬渡欧記念絵画展覧会」に参考品として銅版画3点が展示される。日本初のフォーゲラー作品の展示となる。 |
1911年(明治44年) |
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パリとスイスに旅。パリでリルケと再会。
前年に創設された日本の文芸誌『白樺』と接触する。
雑誌『白樺』第2巻第9号(9月1日付)でフォーゲラーが紹介される。
白樺社主催「泰西版画展覧会」(東京霊南坂下 三會堂)にフォーゲラーのエッチング14点およびヴォルプスヴェーデの他の画家たちの作品が展示される。
雑誌『白樺』第2巻第12号(12月1日付)でフォーゲラーを特集する。 |
1912年(明治45年) |
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ザルツブルグ、ウィーン、ミュンヘン、ヴュルツブルグ、ベルリンへ旅。
白樺主催「第4回美術展覧会」(霊南坂下 三會堂)に一室が与えられ、銅版画38点が出品される。また京都での「第5回美術展覧会」(岡崎公園 府立図書館)にエッチング30数点が展示される。
『白樺』10月号のために表紙を描く。
リルケの著した『マリアの生涯』にフォーゲラーが挿絵を入れるという協同計画が、フォーゲラーの素描を不服としたリルケにより頓挫する。 |
1913年(大正2年) |
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ベルリン滞在。
白樺主催「第6回美術展覧会」(虎の門議員倶楽部)にフォーゲラーの描いた「白樺」図案が展示される。
1914年(大正3年)
第一次世界大戦はじまる。公私共に展望を失い、志願兵として出征する。
ハイメルの死(ルドルフ・アレクサンダー・シュレーダーと共にインゼルをやっていた)。
この年の終りにリルケと最後に会ったといわれる。 |
1915年(大正4年) |
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軍務の訓練。カルパチア山脈に出征し、後にルーマニアに移動。
1916―17年(大正5−6年)
ポーランド、ルーマニア、ロシアに転戦。
ロシア革命おこる。
ボリシェヴィキのビラを読んで共鳴、反戦思想が芽生える。 |
1918年(大正7年) |
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「皇帝への手紙」で戦争継続に抗議し、一時ブレーメンの精神病院に収容される。非法定神経障害と診断され、除隊。
政治的世界観が変貌し、ブレーメンの社会主義着たちと接触する。
ブレーメン労働者及び兵士評議会ができ、その委員となる。
バルケンホフで政治集会。 |
1919年−1924年
(大正8年−13年) |
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バルケンホフが警察と治安当局から組織的に監視される。逃走中の革命家を匿った疑いで警察に捜索され、フォーゲラーは逮捕される。
「バルケンホフ労働者共同体」設立(1923年まで存続)。これは1921年以降「バルケンホフ労働者学校」として、農業および手工芸のコミューンを形成する。
コミュニストのマリー・グリースバッハとの交流。 |
1920年(大正9年) |
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マルタと娘たちとの離別。マルタらは新築のハウス・イム・シュルーに転居する。
バルケンホフの壁画制作(−1926)
1922−23年(大正11−12年)
最後の銅版画制作。 |
1923年(大正12年) |
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後に二人目の妻となるソニア・マルフレフスカと初めてソビエト連邦(以下ソ連)を旅行。モスクワで二人の息子ヤン・ユルゲンが誕生。
「モスクワ西方国家的少数派共産主義大学」の芸術学部長となる。帰国後、共産党に入党。
バルケンホフ「子供の家」、「赤色救援会」と共同利用。 |
1924年(大正13年) |
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母マリー死亡。
バルケンホフが「ドイツ赤色救援会」の所有となる。
複合絵画技法の形成。 |
1925年(大正14年) |
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ロシア革命の宣伝の書『ロシアの旅』を出す。
ベルリンに移住。合間にバルケンホフ・ディーレにフレスコ画を制作(1939年、改築により破壊される)。ベルリンで複合絵画展覧会、国際赤色救援会の任務によりソ連旅行。 |
1926−1927年
(大正15−昭和2年) |
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マルタと正式に離婚。あらためてソ連に旅行し、クレムリンに居を構える。ソニア・マルフレフスカと結婚。
中央アジアへ旅(サマルカンド、アシュハバード、クラスノヴォトスク、バクー)ドイツに帰国、ベルリンに移住。
バルケンホフの壁画が完成するが、当局より撤去を求められる。それに対してトーマス・マンら芸術家・文化人の広範なプロテストの運動広がる。
リヴェラに会う。 |
1928年(昭和3年) |
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革命的ドイツ造形芸術家同盟設立。
次第にソニアと疎遠になる(後にロシアで結婚解消)。 |
1929年(昭和4年) |
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注文画家として窮乏生活。共産党から追放される。
ベルリンのアーキテクトウールビュローのデザイナーとして働く(−1931)。 |
1930年(昭和5年) |
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バルケンホフで赤色救援会が複合絵画展を開催、フォーゲラーの最後のヴォルプスヴェーデ滞在となる。 |
1931年(昭和6年) |
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再びソ連に渡る。〈建築標準化委員会〉に協力。ソビエト・ロシアで宣伝画家として働く。 |
1932年(昭和7年) |
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モスクワ新西洋美術館におけるフォーゲラー展。
ヴォルプスヴェーデの子供の家<バルケンホフ>は閉鎖、所有権が個人の手に渡る。 |
1934年から
(昭和9年から) |
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モスクワ西洋美術館が複合絵画《ハンブルクの整備工》を購入。
カレリアのペトロサヴォスク郷土博物館のために作品を制作する。
カレリア・タシケント、アゼルバイジャン、クルディスタンの旅。 |
1935年(昭和10年) |
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モスクワで複合絵画の個展。雑誌『国際文芸』への協力。 |
1936年(昭和11年) |
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カレリアのペトロサヴォスクで「社会主義の産業」展のために素描90点余りの注文制作を受ける。複合技法の放棄。その後ソビエト連邦人民博物館の依頼で、連邦内の遠隔地へ制作旅行。 |
1941年(昭和16年) |
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ソニアと離別。ソビエト芸術家モスクワ協会の展示室で絵画80点による展覧会。
ドイツ軍のソ連侵攻後、フォーゲラーは赤軍の宣伝部門に加わり、前線に送るパンフレットをデザインする。またモスクワ・ラジオ局のドイツ語放送で声明文の執筆と朗読。
彼の名はドイツ治安当局の特別手配者リストに掲載される。ドイツ軍がモスクワの手前まで侵攻してきたとき、中央アジアのカザフスタンに疎開。ダムで土木工事作業につく。 |
1942年(昭和17年) |
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物質的に窮乏し、健康状態も悪化する。入院するが、7月14日にカザフスタンにて死す。 |